きみねの備忘録

読書とその他よしなしごと

天皇礼賛は天皇制擁護につながるとは限らない

 自国の君主にことさらに愛を表明するなどというのは,ほとんど無礼である。

                  スタンダールパルムの僧院』第七章

 

 『史記』の「秦始皇本紀」によると,天下を統一した秦王政は皇帝の称号を定めるとともに諡号の廃止を決定したという。以後は,第1代皇帝は始皇帝,第2代皇帝を二世皇帝というふうに機械的に死後の君主称号をつけることにしたのである。


 諡号は生前の功績や行いに基づいて君主の死後定められる。後代の評価がよければ武帝だとか昭王だとか桓公などの名誉な諡号が与えられ,評価が悪ければ煬帝や幽王,哀公などの不名誉な呼び方を死後に許すことになる。


 君主は死後にその業績を讃えられることを望むが,それを家臣や子に許すのは批判を許すことと表裏一体である。ゆえに,始皇帝は子が父を,家臣が君主を評価することを禁じたのである。


 天皇が君主であるかはひとまず置いておくとして,この議論を現代日本天皇制に当てはめてみると同様のことが言える。当代の天皇を賞賛することは,次代以降の天皇の評判を悪くする余地を与えかねない。当代の天皇が大変尊敬できる存在で,日本中がそれへの賞賛に満ちていたとする。この時点で天皇「個人」を評価することへのためらいはなくなっている。次代の天皇が素行不良だったり政治介入への意志をみせるなど多くの人が眉をひそめる人であったらどうなるか。答えは自ずとあきらかでその天皇への非難に日本中が満ち満ちることになるのである。


 このような事態となったとき天皇制という制度自体が天皇個人と結びつけられて論じられ,天皇制廃止論に有利な状況が現出する。つまり,天皇「個人」への賞賛を表明することは,その上辺の印象とは正反対に,天皇「制」の存続を危うくする可能性を秘めているのである。


 ちなみに「秦始皇本紀」では司馬遷が賈誼の論文を引用している。そこには新君主にとって前代の苛政は願ってもない助けだとある。なぜなら世は苛政に苦しんでおり,凡庸な政治を行っても人民に感謝されるからだという。これと逆の事態も起こりうる。人民は前代の優れた君主を懐かしみ凡庸な新君主を軽んじるかもしれない。


 一部の尊皇派はこの可能性に気づいているものがいて,天皇やその他皇族が日本国民に積極的に露出するいわゆる「開かれた皇室」に反対する。一例をあげると加地伸行儒教とは何か』(中公新書,1990年)で天皇は公の場に出ず祭祀に徹すればよいと主張されている。


 だから尊皇派を称して今上天皇や現在の皇室を批判することは決して矛盾ではない。個人と制度はその利害を同じくするとは限らないのである。むしろ私は無邪気に皇室を礼賛する尊皇派の論客に矛盾を感じるくらいである。(もちろん尊皇の「皇」が制度ではなく,個人のみを意味するのであればつじつまが合うが)

筑摩世界文学大系 (27)
 

 

儒教とは何か (中公新書)

儒教とは何か (中公新書)