きみねの備忘録

読書とその他よしなしごと

『日本書紀の謎を解く』(森博達,中公新書,1999年)

 本書は日本最古の正史である『日本書紀』を音韻・語法分析を駆使して二つの群に区分し,成立過程を解明した。『日本書紀』の執筆者の性格,巻ごとの成立順序,後人による加筆の実態といったことが極めて強い説得力をもって明かされる。膨大な『書紀』に関する先行研究を整理した上で,著者は漢字音という観点から『書紀』30巻を二つに大きく区分する。その結果巻三〇以外の『書紀』29巻はα群,β群の二つに分けられ,α群は中国人渡来1世によって執筆されたという驚くべき結論を得る。

第1章 書紀研究論

 『日本書紀』は奈良時代初頭に完成した日本最古の正史である。「正史」とは正統な歴史という意味だ。『書紀』は国家の支配権を正当化する意図をもって編纂された。


 『書紀』の文章は漢文によって書かれ本文と分注からなる。分注とは本文の注釈で,和訓の注記(訓注),引用,語句の説明,異伝の掲載などからなる。また30巻のうち21巻には歌謡ものっており,それらは万葉仮名によって表記されている。


 『日本書紀』は「正史」であるが,だからといってその記述が事実とは限らない。神話時代など到底歴史的事実とはみなせない物語もある。では新しい時代の一見本当らしい記述の真偽はどうか。ここに『書紀』を史料として扱う困難さがある。その問題に切り込んだのが津田左右吉だった。


 合理主義者津田左右吉は考古学や人類学,東洋史学などの隣接諸学を動員し内容の真偽を検討した。そして『書紀』の記事は系譜的な「帝紀」と物語的な「旧辞」に分けた上で,応神天皇以前の記事は史実とは言えないこと,応神天皇以後の「旧辞」的な記事も天皇による統治を正当化するため作られたものと結論づけた。


 しかし,津田の研究にも問題があった。それは編纂者の「意図」を考察する根拠の曖昧さである。記事が捏造されたからと言ってそこにどのような意図が隠れているのかを判定するのは容易ではない。


 ここで原点に帰ってみよう。『日本書紀』は書物である。書物は文章の有機的な集まりだ。『書紀』を考察する際,当然文章そのものの分析は欠かせない。隣接諸学の成果を座して待つのではなく『書紀』そのものの分析から記事の虚実を判定できないか。それが本書の問題意識である。


 『書紀』の文章分析の先駆けが江戸時代の河村秀根(ひでね)・益根(ますね)父子による『書紀集解(しょきしっかい)』である。二人は漢文の正確な知識に基づき,『書紀』の研究を行った。父子が達成した業績は大きく分けて三つである。


 第1に『書紀』に使われている漢籍の典拠を徹底的に調べ上げた。その結果,『書紀』は漢籍によって潤色されていることが明らかになった。


 第2に『書紀』中に使用される語句の誤用を指摘した。『書紀』には本場中国の漢文では使われない語法に満ちていた。これらの誤用は漢字の訓読みが同一であるために起こったものが多かった。例えば「有」と「在」である。訓読みではどちらも「あり」と読むが本来の漢文では異なる機能を持つ。「有」は不特定のもの存在を示し「有甲」で「甲有り」と読む。一方「在」は特定の者の存在を示し,「甲在乙」で「甲,乙に在り」と読む。意味も語順も異なっている。


 第3の業績は中国語の文として不必要な分注の存在である。明らかに漢文を知らない者のための語句注釈が存在する。


 著者はこれらの河村父子の業績を高く評価する。しかし,父子はこの発見を深く追究しなかった。潤色に隠された編纂者の意図に注意を向けなかったし,誤用は中世以来の誤写とした。不必要な注も後世の攙入とみなした。父子にとって『書紀』は疑うべからざる正史だった。意図をうがつ対象ではなく,間違いがあってはならないものだった。ここに『書紀集解』の限界があった。


 河村父子は『書紀』本文分析の先駆けだが,近代に入るとその分野の研究は停滞した。


 転機となったのは1929年に出版された岡田正之の研究『近江奈良朝の漢文学』だ。岡田は『書紀』で別の書物を引用する際の語句の使われ方に注目した。『書紀』では引用を示す際に「一書曰」や「一本曰」と行った語句を使う。これらの語句が『書紀』のどの巻で用いられているかを調べてみると興味深いことがわかった。巻ごとに使われる引用語句の数に偏りがあるのだ。例えば「一書曰」は巻一,巻二のみに用いられ一方,「一本曰」は巻一四から巻一九に集中する。


 また鴻巣隼雄は98個の語句について総合的な分析(1937)を行い,巻三〇以外の『書紀』が2つのグループに区分できると指摘した。巻一から巻一三,巻二二から巻二九からなるグループと,巻一四から巻二一からなるグループである。


 これ以後様々な観点から『書紀』30巻を区分する「書紀区分論」の研究が続いていくことになった。岡田の功績は書紀区分論の先駆けであった。


 語句以外の区分指標をまとめると仮名字種,分注の件数,語法分析,出典と素材である。一つ一つ説明していこう。


 仮名字種とは万葉仮名に使われる漢字のことである。『書紀』30巻中21巻に歌謡が記載されているがそこに使われる字種の偏在に着目すると面白いことがわかる。永田吉太郎の研究(1935)によるとある巻において使われる仮名のうち別のある巻にも使われている仮名はどのくらいあるのかを調べたところ,字種の共有具合によって巻三系(巻三・五・七・九・一〇・一一・一三・二二)と巻一四系(一四・一五・一六・一七・二四・二五・二六・二七)に区分できることがわかった。本書では更に巻一・一二・二三は巻三系,巻一九は巻一四系に近いとしている。


 次は分注の件数による区分だ。太田善麿の研究(1947)によると特異的に分注が多い巻一と二を除いた28巻のうち,巻一四〜二一,二四〜二七では分注の件数が多い。これは語句や仮名字種において区分された巻一四系にほぼ一致する。本文との明確な相関性から分注は河村父子が主張するような後代の攙入ではなく,『書紀』編纂当初から存在した可能性が高い。


 以上の語句使用,仮名字種,分注件数による区分によって『書紀』が大まかに巻一系と巻一四系に分けられることが見えてきた。しかし,これらの研究では区分の存在は分かってもなぜそのような区分があるのかは分からない。そのように表記した背景は何なのか。単なる執筆者のくせの違いなのか,それともより深い真相があるのか。


 この限界を突破する可能性があるのが語法分析である。文章にある文法的なくせを抽出し執筆者の性格を探る。


 福田良輔の研究(1934)がその先駆だ。彼は『書紀』中に使用される「之」字の使用例を分析した。すると使用例に巻ごとに偏在があることが分かった。興味深いのが文末助字に使う用法*1や文中で使って語気をよどませる用法*2(中止法)だ。この用法は巻一系に偏在するが,本場中国の漢文ではあまり見られない用法である。しかし日本では上代漢文でよく使われる。巻一系の執筆者は日本漢文に慣れ親しんでいたようだ。それはどのような背景に基づくのか?


 語法分析は表記の背景を解読する突破口となりうるが限界もある。それは執筆者の用字意識と研究者の用字区分が一致しない可能性があるということだ。研究者ごとに用字分類が違うこともある。これでは区分に曖昧さを残してしまう。故に福田の研究では巻一系,巻一四系の分類が有効だったが,別の研究者による分析では『書紀』の区分が異なるものも出てしまった。


 最後に典拠に基づく区分である。河村父子の『書紀集解』も『書紀』の典拠の指摘を行っていた。この研究を継承し,区分論の視点を導入する。小島憲之(1952)は『書紀』の潤色の多寡,典拠の相違にもとづき区分を行った。ところが厄介なことにこれまで述べた語句使用,仮名字種,分注件数,語法分析による区分と典拠に基づく区分は一致しない。


 区分論の研究をまとめよう。使用語句・仮名字種・分注の偏在を分析することで『書紀』は巻一系と巻一四系の二つの集団に区分できることが見えてきた。しかし,そのような区分が起こった背景はわからなかった。語法分析はその背景をおぼろげながら浮かび上がらせたが手法に曖昧さがつきまとった。典拠に基づく区分はそれ以外の区分論と一致しなかった。


 区分論は暗礁に乗り上げたかに見える。だが少し立ち止まって考えてみてほしい。『日本書紀』は書物であり書物は文章の有機的な集まりだと言った。文章は言葉だ。言葉に欠かせない要素がこれまでの研究には抜け落ちている。音だ。音韻の視点を導入することで著者は『書紀』研究に風穴を開けた。次章ではその全貌を見ていこう。

 

第2章 書紀音韻論

 言語の音韻は時代を経ると変化する。日本語ももちろん例外ではない。


 『書紀』が編纂された当時の音韻はどんなものだったのか。本居宣長を嚆矢として国学者がこの問題に取り組んだ。研究は近代でも継承され,上代奈良時代以前)には87種の音節があることが分かった(ただし上代文献でも『古事記』のみは88種)。上代文献ではイロハ47文字以外にも書き分けがあった。こういった書き分けを上代特殊仮名遣という。この書き分けは発音の相違に基づいていた。


 仮名遣いの研究から上代の音節数が分かった。では実際の音色(音価)を推定することができるだろうか。『書紀』編纂当時,中国で話されていた音韻は中古音と呼ばれるものだった。中古音は隋代の『切韻』などといった発音字典のおかげで復元が可能だ。万葉仮名が中古音に基づいて日本語の音を表していたのであれば,当時の日本語の音価を解明できそうだ。


 だが,ことはそう単純ではない。早熟にして早世の天才国語学者有坂秀世は遺著『上代音韻攷』(1955)において次のような事実を根拠に,万葉仮名は中国の発音ではなく日本の発音に基づいていると指摘した。


 第1にカ行の仮名に中国原音で[k-]音で発音する漢字のみならず[h-]音で発音する漢字も用いている。


 第2に無気音のみならず有気音*3の漢字も使用している。


 第3にア段の音に異なる母音の漢字を用いている。日本人には同じ「ア」に当たる母音が中国語には2種類あるがこれが万葉仮名では混同されている。


 要するに一つの日本語音を表すのに複数の原音の漢字が混同されているのだ。つまり,万葉仮名とは中国音に基づいて日本語を表しているのではなく,中国から移入され「日本語化」された漢字音によっって日本語を表記している可能性があるということだ。


 万葉仮名が日本語化された漢字音に基づいているのであれば,上代音価推定は困難だ。なぜなら上代の日本語音を究明するためには万葉仮名の漢字音を知らなければならないが,その漢字音が上代の日本語音そのものなのだから。


 しかし,著者はこの袋小路に対する突破口を発見する。すでに説明したが,基本的に漢文で書かれた『書紀』でも歌謡や訓注の表記に万葉仮名が使用されている。さらに万葉仮名には使用例に偏在がある。著者が『書紀』中に使われる万葉仮名を整理したところ,次のような事実を発見する。カ行を表す仮名で[k-]音と[h-]音が混同されているのは巻一系だけであった。巻一四系では[h-]音は使われずカ行を表記するのに[k-]音の漢字のみを用いていた。つまり有坂の言う第1の根拠は『書紀』の巻一四系では当てはまらない。


 それだけではない。


 巻一四系では原則的に無気音が使われ,有気音の漢字はカ行のみにしか使われていない。これは当時のカ行の音が息の通りが強く,有気音に聞こえていたためだろうと著者は推測した。


 さらにア段の音を表す際も中国音の二つの「ア」音を混同していない。


 要するに有坂の指摘した万葉仮名が日本語音に基づくとする説は『書紀』の巻一四系ではあてはまらない。さらに著者は研究を進め,巻一四系ではア段のみならず同じ段の音と中古音の母音が一対一に基本的に対応しており,同じ行の音を表すのにも中古音の子音の区別に基づいていることが分かった。例外も当時の中国における発音の変遷など正当な理由がある。一方で巻一系ではこれらの対応や区別はない。つまり巻一四系では有坂の指摘は当てはまらず中国原音に基づいて日本語を表記しているのだ。仮名字種の偏在もこれが理由である。


 巻一四系の表記によって二つのことがわかる。一つは当時の日本語の音価。中古音に基づいて復元できる。もう一つは『書紀』の区分の決定である。


 第1章で著者以前の『書紀』区分論の先行研究を紹介した。語句・仮名字種・分注・語法・典拠に基づいた区分が行われたがどれも曖昧さや矛盾をはらみ決定打に欠けていた。しかし.著者の研究によって区分は音韻に基づいていたことが分かった。中国原音に基づく巻一四系,日本語化された漢字音に基づく巻一系である。歌謡のない巻も訓注の万葉仮名を参照することで巻一四系か巻一系に分類できる*4。著者はあらためて巻一四系をα群(巻一四〜二一,二四〜二七),巻一系をβ群(巻一〜一三,二二,二三,二八,二九)と名付けた。

 

 α群の万葉仮名は中国語原音に基づいていた。だがこれだけでは原音に詳しい日本人なのか中国語母語話者なのか判断がつかない。しかし著者はα群の執筆者は中国人渡来1世と結論付ける。いくつか根拠があるが割愛してひとつだけ紹介しよう。


 α群中には濁音を清音で表記している箇所がある。例えば水(water)を表記する際「ミヅ」ではなく「ミツ」にあたる万葉仮名を表記している。仮にα群の執筆者が日本語に慣れ親しんでいたらこんな初歩的な間違いを犯すはずがない。これは日本語に慣れていないα群の著者が濁音を清音に聞き誤ったためだ。


 著者は音韻に基づいて『書紀』を厳然と区分し,次に文章論による分析に移っている。ここで注目してほしいのは論理的には音韻による区分が先で文章の分析は後ということだ。音韻は語句使用や語法のくせとことなり執筆者の性格を正直に写す。語句の使用頻度や文体は同じ執筆者でも意識的に変えることができる。同じ人物が「です・ます」体と「である」体の両方を使いこなすことができる。しかし,文章を読む際の発音は変わらない。音韻にごまかしはない。こうして区分論は揺るぎない根拠を手に入れた。この前提のもとさらなる執筆者の性格を究明するべく文章の解読へと進む。

 

第3章 書紀文章論

 『日本書紀』は書物であり,文章から構成される。第2章では音韻面から『書紀』を解読し,α群とβ群に区分できることがわかった。さらにα群は中国語原音に基づいて執筆されており,執筆者は中国人であることが明らかにされた。言語は音韻・語彙・語法から構成される。当然音韻の次は語彙と語法の分析に移る。


 ここで第1章で紹介した河村秀根・益根父子の業績を思い出そう。父子は『書紀集解』において漢文本来の用法から見て誤用にあたる部分を指摘した。「有」と「在」の混同が代表例だ。この研究に『書紀』区分論の視点を導入してみよう。


 河村父子は『書紀』における誤用を中世以来の誤写と考えた。『書紀』を「正史」として絶対視する立場からその無謬性を疑わなかった。ところが,『書紀』における誤用はβ群に集中しα群には少ない。仮に中世以来の誤写とすれば全体に均等に分布するはずである。第2章の結論をかんがみれば理由は明らかだ。α群は漢文に精通していた中国人が執筆していたため誤用が少なく,β群は中国語に疎い日本人が執筆したため誤用が集中したのだ。


 β群には誤用のみならず奇用も多い。奇用とは文法上誤りではないものの漢籍に使用例が非常に少ない用法を指す。これもβ群の執筆者が本場の漢文になじんでいなかったためだ。


 これら誤用と奇用をもうすこし具体的に見てみよう。誤用には大きく分けて2種類ある。訓読みに基づく誤まりと語順の誤まりである。


 訓読みに基づく誤りはさきほど述べた「有」と「在」の混同である。漢文では異なる意味だが日本語で読み下すとどちらも同じ「アリ」となり混同されてしまう。他にも「マタ」の訓による「又」・「亦」・「復」の混同,仮定条件(〜ならば)を表す「者」を確定条件(〜ので)に使用する*5などがある。


 語順の誤りの代表例は否定詞がからんだ誤りである。例えば「高枕而永終百年,亦不快乎。[枕を高くして永(とこしえ)に百年を終へんこと,亦快からずや。]」は「不亦快乎」が正しい。「本当にまあ〜ではないか」という反語の表現だ。この手の語順の誤りがβ群には頻出する。


 β群には第1章でも紹介した「之」の用法の他に禁止の助動詞「勿」,「毋」を存在の否定「無」,叙述の否定「不」の意味に通用する例がある。漢文でこのような例がないわけではないが,一般的ではなく奇用といえる。また韻文で使われる助字「兮(けい)」を散文で用いるなど文脈をわきまえない奇用もβ群には散見される。


 α群は基本的に文法的に正しい漢文で書かれβ群は誤用と奇用に満ちている。執筆者の中国語能力から考えれば当然のことだ。河村父子が指摘した不自然な分注もこれで説明がつく。β群の執筆者が中国語に疎かったためだ。ところがα群にはまだ謎が残されている。α群における誤用や奇用が存在である。


 例外を所詮例外と無視するのも一つの態度である。α群とβ群の執筆者の背景について結論を出せただけでも十分すぎる業績だ。しかし著者は例外を直視する。著者は言う。「異例の存在はまことに貴重である。無視するのではなく,喜んで受け入れることだ。例外の存在を直視すれば,いっそう理解が深まる。」


 実を言うとα群の誤用は出現する理由がある。第1に別の史料からの引用,第2に後世の潤色,第3に原史料の反映である。


 α群の執筆者は正しい漢文の用法を知っていた。そのため執筆者自身が記す所に誤用と奇用を許さなかった。しかし史料を引用する際は原文尊重の立場から誤用の訂正をためらった。


 第1章でも見たように『書紀』には明らかな潤色がある。潤色を行った人間は漢文に通暁しなかったようだ。そのためずさんな文章となり誤用と奇用を乱発してしまった。そしてこれが第1章で述べた出典による区分論が他の区分論と一致しない理由である。『書紀』の主要な部分を書いた人間と潤色した人間とが別人だったからだ。


 第3も別の史料をもとにしているがそのことが明示されていない箇所だ。史料を明示しない分第1に比べ執筆者が独自に添削する心理的ハードルは低い。誤用は訂正されたが原史料尊重の姿勢から奇用は残された。


 『書紀』はβ群は誤用と奇用に満ちていたが,α群には少なかった。α群の執筆が中国人によってなされたことを考えれば当然のことである。さらにα群の例外にも正当な理由があった。そしてそれは『書紀』の編纂背景を解明する鍵となりうるものだ。次章ではこれまでの成果を総合して『書紀』成立の経緯を探る。

 

第4章 書紀編集論

 これまで見てきたように『日本書紀』は中国語によって書かれたα郡と日本語的発想によって書かれたβ郡に分けられる。前者は万葉仮名の表記が中国語原音に基づき文法的にも正しい一方,後者は日本語音によって万葉仮名を表記し文法の誤りも多かった。前者は中国人が,後者は日本人が執筆したためである。


 更に『書紀』には後世の潤色もあった。α郡の文法上の誤りは一部これに由来する。


 これらのことを手がかりにして『書紀』編纂の経緯を本書では推定している。


 著者がα郡の執筆者として推定するのが続守言(しょくしゅげん)と薩弘恪(さつこうかく)だ。二人は唐から渡来した中国人1世であり中国語音韻の専門家である音博士に朝廷から任じられていた。『書紀』編纂は朝廷の一大事業である。当然執筆には当代最高の学者が選ばれただろう。日本語を正確に音訳し,格式高い漢文を綴るのに彼ら二人ほどふさわしい人材はいない。ちなみに薩弘恪はのちに大宝律令の編纂にも関わっている。


 『書紀』は巻一からではなく巻一四から編纂が行われた。根拠は巻一三「安康紀」の記事にある。安康天皇は幼い皇族の眉輪王によって殺害される。ところがこの経緯が「安康紀」では詳しく語られず巻をあらためた「雄略紀」で記述される。「安康紀」には殺害の経緯は「雄略紀」に詳述する,という旨の分注もある。これは「雄略紀」の執筆が「安康紀」に先行したと考えなければ説明がつかない。


 雄略天皇の時代は編纂当時古代の画期とみなされていた。そのため『書紀』は「雄略紀」から記述された。もう一つ,古代には画期がある。大化の改新である。大化の改新皇極天皇時代の蘇我入鹿殺害から始まる。著者はα郡の執筆は巻一四〜二三と巻二四〜二九で分担して行われたと推定する。実際α軍の巻一四から巻二一,巻二四から二七には使用語句に違いがある。これは執筆者の違いに由来すると考えられる。


 おそらくもともとの計画では巻一四から巻二九を続守言と薩弘恪の二人で完成させる予定だったのだろう。だが完成前に二人は死亡あるいは引退した。残りの巻二二,二三,二八,二九は新たに編纂することになった巻一から巻十三ともにβ郡執筆者に引き継がれた。


 β郡の執筆者は本場の漢文に習熟しなかった。本書では執筆者を山田史御方(やまだのふひとみかた)と推測する。彼は新羅に僧として留学経験を持ちのち還俗して文章博士に任じられた。文章の執筆には秀でていたが唐留学経験がなく正格な漢文はかけなかったと推定される。またβ郡の漢文には仏教漢文の影響と見られる語句がある。これも元僧侶の経歴に適合する。


 ところで『書紀』には後世の潤色もある。α群の例外にあるようにこの箇所は漢文として拙さが目立った。語句の使用頻度からも前述の三人とは別の人物だ。潤色を必要とした時期朝廷には人材が不足していたと推察される。


 一方全30巻の『書紀』には特異な巻がある。「持統紀」がのる巻三〇だ。この巻には歌謡が存在せず訓注も2件しかないため音韻面から執筆者の性格を推測することは不可能である。ただし概して正格な漢文で書かれているので強いて言えばα群に近い。だが巻三〇をα群に加えることは成立経緯を考えると無理がある。α群の執筆者は続守言と薩弘恪であるが彼らは持統帝が崩御のころまでに死亡あるいは引退したと見られている。「持統紀」が持統帝崩御してすぐに執筆されるはずがないので巻三〇の編纂には二人は関わっていない。


 本書では『続日本紀』の記述から潤色者を三宅藤麻呂(みやけのふじまろ),巻三〇の執筆者を紀清人(きのきよひと)と推定する。『続日本紀』によると二人はα群とβ群の基本的執筆終了後と見られる714年に国史撰述の詔を受けていた。


 以上の『書紀』編纂経緯をまとめると次のようになる。はじめ『日本書紀』は雄略天皇以後の歴史を記述しようと企図され,中国人渡来1世,続守言と薩弘恪によって記述された。しかし道半ばで二人は力尽き不完全な原『書紀』が残された。これがα群(巻一四〜二一,二四〜二七)である。中国人によって書かれたα群は中国語原音に基づき文法的誤りもすくなかった。


 その後雄略以前の歴史書の編纂も企図され神代以降の歴史と続守言・薩弘恪両名が果たせなかった巻の述作も行われた。担当者は日本人で唐留学経験のない元僧侶の山田史御方である。彼は中国語母語話者でなかったため歌謡と訓注は日本語音に基づき文法上の誤りも多かった。


 その後『書紀』全体の潤色と巻三〇の執筆が行われ,それぞれ三宅藤麻呂と紀清人が担当した。藤麻呂は漢文能力が低かったらしくつたない文章が目立った。対して清人は正格な漢文を執筆している。巻三〇はα群に見紛うほどだった。


 以上の論証から本書の著者は『日本書紀』がα群・β群・巻三〇に区分できることを示した。さらにそれぞれの区分の執筆者の性格を突き止め『書紀』編纂の経緯を明らかにした。特に潤色部分の抽出は記事の真偽を判定する上で大きな手がかりとなる。著者の発見により私達は『書紀』編纂の意図を探り,ひいては古代日本の史実を解き明かす重要な足がかりを得た。


 結論も驚くべきものだがそこに至る過程も実に面白い。先行研究を整理し研究の方向性と問題点を定め,悪戦苦闘する中ついに音韻という鍵を見つける。そうして区分論の土台を確実なものとした上で文章の分析に入りついには編纂の経緯と意図にたどり着く。その解明は綿密な証拠分析を行って犯人を追い詰める名探偵の推理のようだ。確実な証拠の積み重ねは実に説得力があるし,得られた結論も実に深い。古代日本史に興味を持つ人はぜひ読むべき本だし,なにより本書で示された『書紀』探求の軌跡は玄人素人問わずすべての学術研究者の模範となるものではないだろうか。

 

 

 

*1:君則天之,臣則地之。[君は天なり,臣は地なり。](巻二二)

*2:位空之既経年月。[位空しくして,既に年月を経ぬ。](巻一三)

*3:発音の際息の通りが強い音。無気音・有気音は現代共通日本語では区別されないが,中国語では意味の相違に直結する。

*4:ただし巻三〇は歌謡がなく訓注も二つしかないので例外。

*5:仮定条件と確定条件ともに古文では接続助詞「ば」を使うため混同された。