きみねの備忘録

読書とその他よしなしごと

『時間の科学』(村上陽一郎,岩波書店,1986年,「NEW SCIENCE AGE」20)

 時間認識の変遷をガリレイ以来の科学史的観点から解説し,そこからさらに自由や生命の時間との関わりを論じた本である。

 
 定式化された時間の概念として有名なのがニュートンの「絶対時間」だろう。時間は世界の事象と関係なく誰の目から見ても均一に流れている,とニュートンは仮定した。この仮定がニュートン力学の前提となっている。「絶対時間」は今日の我々から見ると常識的な概念のように見える。時間はいつでも同じように流れているはずだ,と多くの人が素朴に思っているに違いない。しかしなぜこの「常識」がわざわざ定式化されなければならなかったのか。その答えが本書に載っている。
 
 
 時代をガリレイの時代に戻そう。ガリレイはものが落下する速さと時間の関係を考察した。そしてものを落下させたときの速さは落下させてからの経過時間に従って直線的に増加(比例して増加)することを発見した。その際使用したのが今で言うグラフである。ただしこのグラフは今の一般的なグラフとは異なっていた。現在速さと時間の関係をグラフにする場合上向きに量が増加する縦軸と向かって右方向に量が増加する横軸を書く。大抵は横軸が独立変数,つまりこの話題で言えば時間となっている。しかしガリレイのグラフは縦軸が時間を表しかつ向きも下向きになっていた。
 
 
 ここで一つの混乱が生じる。このように下向きの縦軸は一見すると時間ではなく「距離」を表しているように見える。つまりガリレイのグラフでは「時点」と「地点」の区別があいまいなのだ。このような混乱が生じてしまう理由は「時点」と「地点」が現実には一体となっていることにあるだろう。
 
 
 例えば時刻0で原点Oから歩き始めたとする。歩いて時刻tで距離lの地点に至ったとしよう。「どのくらい」歩いたのかを示すのに時間tの分歩いたとも言えるし距離lの分歩いたとも言える。時刻tにおける距離はl以外ありえないし距離lにおける時刻はt以外ありえない。そのため時間で表しても距離で表しても「同じこと」を指し示すのである。「時点」と「地点」を混同してしまうのは当然と言える。
 
 
 「同じこと」を指し示すのであれば混同はさして問題でないと思う人もいるかもしれない。だがここに速さが絡んでくるとそうはいかなくなる。落下運動において速さは時間に比例する。しかし速さと距離は距離の平方根に速さが比例する関係である。速さが絡むと時間と距離の違いは明確となり混同は許されない。そうした背景がニュートンの「絶対時間」を生んだ。「絶対時間」は「絶対空間」の概念と相補的関係にある。「絶対空間」もどこまでも均一でそれ自体が広がっている。ここに時間と空間は完全に分離され,時間とその関数である物体の運動を記述することが可能となる。
 
 
 
 こうして定式化された「絶対時間」はニュートン力学の成功により科学者たちに広く受け入れられる大前提となった。近代の常識も「絶対時間」の概念によっていると言っていいだろう。しかし,この概念を打ち崩す物理理論が現れた。アインシュタイン相対性理論である。
 
 
 相対性理論が生まれた背景としてニュートン力学では説明できない光の速さに関する問題があった。ニュートン力学において速度というのは観測者によって異なる。たとえば地球は太陽系を公転しているがその上に暮らすすべての生物は動いていると感じていない。生物は地球と同じ速度で動いている。そのためそこから見ると地球は止まって感じられる。
 
 
 ところがアメリカのマイケルソンとモーリーによる光の速さを測定する実験がその前提を崩した。彼らの実験で地球の公転に対する光の進行方向を変えても光の速さが変わらない,という結果が出てしまったのだ。
 
 
 この矛盾を解決する理論として登場したのが相対性理論である。ニュートン力学では時間と空間を絶対視し速度は相対的なものとした。しかし相対性理論はこれを否定し時間と空間こそ観測者によって変化し光の速さこそいかなる観測者から見ても変化しない絶対的なものだとした。これに基づいてニュートン力学の法則を修正したことで,より正確に物理現象を記述できるようになった。相対性理論に基づくと速く進む物体は静止している観測者から時間が遅れて見えかつ長さが縮んで見えるという現象が起こる。時間と空間が関わり合いその絶対性も崩壊する世界観だ。
 
 
 ニュートン力学の時間概念は相対性理論で否定された。一方否定は別の理論からも行われている。熱力学による時間概念の修正である。
 
 
 そもそもニュートン力学は物体の運動を記述する理論である。それによると物体は力が加わらない限り速度を変えない。力が加われば加速度が生じ速度が変化する。これらは時間に関する方程式で記述される。ニュートン力学運動方程式に基づけばある時点の物体の速度・位置・加わる力がわかれば未来の物体の運動を方程式に基づき厳密に予測することができる。これは過去についても同様であって過去において物体がどのように運動したかを正しくさかのぼって記述できる。ニュートン力学の法則は時間が正方向に流れていても成り立つし時間の流れを逆転させても成り立つ。典型的なのは振り子の運動だろう。右,左と揺れる振り子を動画にして逆再生しても違和感がない。
 
 
 しかし熱力学的な現象はこれと異なる。熱力学的な現象とは膨大な分子が相互作用する現象である。あまりに複雑な相互作用を行うため各分子の運動を一つ一つ記述することができない。そのためニュートン力学とは別の理論が必要となる。これが熱力学である。例えばコーヒーにミルクを混ぜるとそのままミルクはコーヒーに溶けて一体となる。時間がどんなに経とうがコーヒーとミルクが分離した状態になることはない。つまり現象の逆転がありえない。ニュートン力学の法則が時間を逆転させても成立するのと対称的である。
 
 
 しかしここで問題となるのが熱力学現象も結局は分子の運動によって起こるということだ。分子の運動はニュートン力学で記述できる。つまり現象の方向はどちらでもいい。にもかかわらず分子が集まると現象が必ず特定の方向にしか進まないとはどういうことか。これは熱力学的世界観とニュートン力学的世界観をどう橋渡しするかという物理学上の難問である。
 
 
 この問題に関して人間の観測という要素が鍵になると著者は述べている。まずコーヒーにミルクを混ぜ時間が経過し混ざった状態のコーヒーを観測する。ここでコーヒーとミルクが混ざる前の記憶がなければ過去の状態についてあれこれ言い立てることは不可能である。ここにこの難問を解く鍵があるのではないかと著者は言うが曖昧な論理であり納得の行く考察ではない。
 
 
 ここから著者の論考は時間と自由,時間と生命の関係に及ぶ。著者いわく自由とは熱力学的な現象の一方向性に対する抗いである。熱力学現象では未来の現象は決定されている。コーヒーとミルクが分離することはない。この未来への決定に異議を唱えることが人間の自由の由来ではないかと論じている。さらに時間の流れは生命における1日のリズムの時間,人間活動における仕事に付随した時間という様々な捉え方があることを述べ本書を終えている。
 
 
 近代における時間論を科学史の観点から紐解いて明晰に解説してくれている好著である。現代科学の時間概念の成立の必然性がわかったことは大きな収穫だった。特に「絶対時間」概念成立の背景は興味深く読んだ。常識を単に記述したに過ぎないと思っていた「絶対時間」概念が科学の発展上かなり必然的なものだということがわかり面白かった。またニュートン力学と熱力学の時間概念の矛盾など時間には解明されない問題があることも好奇心をかられた。それに悪戦苦闘しなんとか答えを導こうとする著者の姿勢も評価できる(答え自体は納得できるものではない)。
 
 
 ただ最後の自由や生命に関する記述はそれまでの記述と関連が薄くまとまりを欠いて見えるのが残念なところだ。また微分法をごまかしとする記述も問題だ。ニュートンライプニッツ微積分を創始した頃はその批判は妥当だったかもしれないがその後微積分学は基礎概念の精密化が行われている。ごまかしと言うなら精密化の成果を俎上に載せた上で反論してほしかった。
 
 
 それでも表題通り科学が時間をどう捉えてきたかを知ることができ大変勉強になった。また比較的分量も少なく読了の負担が小さいのもよいところである。